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中佐平


 高山城跡(城山公園)の中佐平には、高山城だった当時に何があったかは現地に案内板が無く不明ですが・・・、現在は広瀬武夫 海軍中佐の銅像(胸像)があります。戦前は「軍神 広瀬中佐」として教科書にも載るほど有名だった人物です。
 広瀬中佐は、1868年(慶応4年)5月27日に豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれ、1877年(明治10年)に父 広瀬重武が高山裁判所 所長となったため家族で高山へ移住しました。高山では、煥章学校(現 東小学校)に学び1882年(明治15年)に卒業しました。その後、海軍兵学校に入学し、1891年(明治24年)に海軍少尉に任官しました。日清戦争では軍艦扶桑の航海士として従軍しました。日露戦争では、旅順港閉塞作戦に参加し、第2回閉塞作戦の際に閉塞船(自沈して港を閉塞させるための船)福井丸の指揮を執りました。この撤退時(1904年(明治37年)3月27日)に、行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けるため船内を3度捜索した後、救命ボート上で敵軍砲弾の直撃を受け戦死(享年36才)しました。
 中佐平にある広瀬中佐の銅像は、1905年(明治38年)に煥章学校の同窓生達により建立されました。太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に金属供出により胸像が失われ、長らく台座のみが残されていましたが、1967年(昭和42年)に補修復元されました。
 
高山城跡 中佐平(写真:2009年10月10日撮影)
中佐平
 
海軍中佐 廣瀬武夫銅像
海軍中佐 廣瀬武夫銅像
 
高山城跡 中佐平 地図
 
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