いこまいけ高岡 >
立山 >
ハイキングと登山 >
浄土山と龍王岳への登山 >
浄土山
軍人霊碑
浄土山・北峰にある軍人霊碑は、明治42年(1909年)に建立され平成17年(2005年)に再建されたものです。この慰霊碑は、日露戦争で戦病死した富山県出身者2595名(第9師団歩兵第35連隊)を祀ったものです。
軍人霊碑(写真:2007年8月01日9時28分撮影)
浄土山 軍人霊碑 地図(Google Map)
浄土山 軍人霊碑と周辺のコースポイント
1. ベンチ:標高 2569m
2. 浄土山登山口:標高 2660m
3. 室堂山展望台:標高 2,675メートル
4. 室堂山:標高 2,668メートル
|
5. 軍人霊碑:標高 2817m
6. 浄土山北峰(ケルン):標高 2,831メートル
7. 浄土山南峰(富山大学 立山研究所):標高 2834m
8. 龍王岳:標高 2,872メートル
|
2016年 軍人霊碑(写真:2016年8月12日9時51分撮影)
2007年 軍人霊碑(写真:2007年8月01日9時27分撮影)
2006年 軍人霊碑(写真:2006年8月16日9時28分撮影)
「軍人霊碑」再建の記(写真:2007年8月01日9時29分撮影)
「軍人霊碑」再建の記
ここ、越中の表徴、立山連峰の一峰浄土山の頂上には、嘗て日露戦争に従事しれ、戦死、戦病死された富山県人二千五百九十五柱を合せ祀った「軍人霊碑」が建立されていました。
日本で言えば幕末の頃、白人列強の有色人種への侵略の魔の手は愈々我国の周辺、東アジアにも及んで来ました。それは今日的見方の「侵略」の善悪とは別次元の当時の世界の潮流だったのです。特にアヘン戦争等により白人列強に蚕食(桑の葉が食べられるように)される清国の有様を見た幕末の先人達は、清国の二の舞を踏んではならないと、明治維新を成し遂げ、祖国の尊厳ある独立を守り通す為に、先進諸国にも学びつつ懸命の努力を重ねました。
東アジアの地図を思い浮かべて見ましょう。当時も、そして現在只今も、朝鮮半島は正に、日本列島に尽き付けられた短刀のようなものです。「北朝鮮によるミサイルや拉致問題更に核武装問題」「韓国による竹島占拠問題」等を思えば、朝鮮半島並びにその周辺の情勢が、如何に日本の安全に決定的かよく理解出来ます。
かねてから領土的野望もあり、東アジアにおける不凍港を獲得しようと東進南下策を採っていたロシアは、清国の弱体に付け入り、幕末、明治初期益々満州(現在、「中国東北部」と称されている地域)での拠点を拡大し、明治二十八年日本が東洋の安定を図って戦った日清戦争で得た遼東半島を三国干渉により無理矢理清国に還付させるに至り、我国は国民挙げて「臥薪嘗胆ー辛さ、苦しさに耐え、他日の大成を期す」を合言葉に我慢しました。そしてロシアは清国に迫り各種特権を手中にし、東洋艦隊を旅順、大連に進め、日本から取り上げた遼東半島を自ら租借(他国の領土を借り受ける)し、明治三十三年清国の義和団の乱に便乗して南満州に大兵力を派兵、乱終結後も撤兵の約を破り、却って明治三十六年には満韓国境に軍を移動、終結させたのです。これは、満州を略奪し、韓国を併呑し、やがて日本をも侵略せんとの野望に他ならないものでした。日本は問題を平和裏に解決しようとロシアと交渉すること十回、その間もロシアは十月には奉天を占領、十一月には軍を遼東半島に進める等、ロシアは交渉を単なる時間稼ぎにしていたのであり、我国は巳む無く起ち上がる以外に選択肢は無い所まで追い詰められたのでした。
明治三十七年二月六日交渉は遂に決裂、日本は東洋の平和と、自国の独立保持の為決然矛を執ったのです。これが「日露戦争」であり、この時、主として旅順要塞攻略戦、奉天大会戦を戦ったのが、乃木大将指揮下の大三軍であり、その下の第九師団にあった、歩兵第三十五連隊こそ我ら富山県人を主体として編成された部隊でした。そして戦役後、これら郷土の英霊を鎮魂、顕彰しようと発願したのが、時の雄山神社社司栂野安輝であり、数多の県人の賛同協賛を得て、明治四十二年、当時の第九師団長神尾光臣中将の揮毫になる「軍人霊碑」が建立された次第なのです。
その後長年の風雪により、この忠魂碑の損壊も甚だしく、殆ど忘れ去られていました。そんな折、富山県護国神社では嘗て広く行われていた越中男子成年に当たっての美俗「立山登拝」の復活を通じて青少年教化善導を願い、平成十一年より「元服立山登拝」め銘打って実施していました。そして、その登拝に際し、朽ち果てんとする「軍人霊碑」に登拝して、関係者一同心中深くその修建を誓ったのでありますが、本年は丁度、大東亜戦争終戦六十周年そして日露戦争戦勝百周年という記念の年に方り、雄山神社を始め、多くの県民の皆様の御理解と御協力を得て、ここに再建修復申し上げたのです。
なお、この忠魂碑は過去の文献資料や歴史研究等により、この場所に明治四十二年に建立されたことが明らかであったため自然公園法による手続きを行い、再建修復されたものであります。
平成十七年八月二十一日
「軍人霊碑」修復実施委員会委員長
富山護国神社宮司 栂野守雄
軍人霊碑からの山岳パノラマ(写真:2016年8月12日9時55分撮影)、写真左から、剱岳、剱御前、別山、後立山連峰の雪倉山と旭岳および白馬岳、真砂岳、立山(富士の折立、大汝山、雄山)、後立山連峰のスバリ岳と針ノ木岳、黒部湖東側の蓮華岳と北葛岳および七倉岳、龍王岳が見えます。
軍人霊碑からの雄山(写真:2016年8月12日9時54分撮影)
軍人霊碑からの剱岳(写真:2016年8月12日9時54分撮影)
ページ先頭(室堂から浄土山と龍王岳への登山:軍人霊碑)へもどる。
Copyright © 2006-2021 Ikomaike TAKAOKA. All Rights Reserved.