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放生津城
放生津城(ほうじょうづじょう)は、鎌倉時代末期に越中守護・名越氏が造った越中守護所が放生津城(平城)の起源です。室町時代に入ると、越中の守護が畠山氏となりましたが、守護畠山氏に代わり射水郡・婦負郡守護代であった神保氏が入城しましたた。1493年(明応2年)に明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠は、政変で幽閉された将軍足利義材を放生津城へ迎え、上洛のための諸準備行いました。この時に越中で樹立された幕府政権を歴史上「越中公方(えっちゅうくぼう)」と呼びます。1520年(永正17年)には、越後守護代「長尾為景(上杉謙信の父)」の越中侵攻の時に落城しました。その後神保氏により再建され、前田氏により城代も置かれましたが、江戸時代初期には廃城となっています。廃城後は、田畑とされ、江戸時代後期には加賀藩前田家の蔵屋敷(米倉)が設けられました。現在では、城域は射水市立放生津小学校グラウンドとなっており、グラウンド横に石碑がある程度で当時を偲ばせるものはありません。1988年から1991年にかけて発掘調査が行われ、出土品の一部が射水市新湊博物館に展示されています。
放生津城跡(写真:2009年10月1日撮影)、城跡の遺構は存在しません。
放生津八幡宮 地図
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住所:富山県射水市中新湊
交通アクセス:万葉線・中新湊駅から徒歩
放生津城 写真
「城跡」と刻まれた石碑
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土塁のように見える土盛
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昭和天皇歌碑
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新造された昭和天皇歌碑
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