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前田家墓所
第12代藩主 前田斉広公の墓
前田斉広(まえだ なりなが)は、加賀藩 第10代藩主だった前田重教が隠居後の1782年9月5日(天明2年7月28日)に次男(母は重教の側室であった貞琳院・喜機(山脇氏))として金沢で生まれました。第11代藩主前田治脩に実子が無かったため、前田斉広の兄である前田斉敬が養子となり世継ぎとなっていましたが、1795年8月14日(寛政7年6月30日)に前田斉敬が18歳で夭逝したため、1802年(享和2年)に叔父・前田治脩の養子となり、同年に前田治脩のの隠居を受け、家督を継ぎ第12代藩主となりました。正室は高須松平勝当の娘・維学心院(琴姫)、継室は鷹司政煕(公家)の娘・眞龍院(隆子)です。1822年(文政5年)に嫡男の前田斉泰に家督を譲り隠居し、1824年8月4日(文政7年7月10日)に享年43歳で没しました。法名は「金龍院文古雲遊大居士」です。
前田斉広は、時勢への洞察が深く、洋学の移入を急務と考え、蘭学医・宇多川玄真をはじめ、本田利明、伊能忠敬(測量家)らの学者を招き藩士に教育を施したので、黒川良安(北陸近代医学の祖、越中国新川郡(現在の富山県上市町)出身の蘭学者)、西村太沖、遠藤高璟らの科学者や富田景周、津田鳳卿、奥村栄実(国学者であり加賀藩年寄(加賀八家奥村宗家第11代当主))らの学者が加賀藩から輩出されました。
兼六園を完成させたのも前田斉広の業績に一つです。竹沢御殿と呼ばれた広大な屋敷を造営し、そこに時鐘を置き人々に正しい時刻を知らせました。なお「兼六園」という名称は奥州白河藩主・白川楽翁(江戸幕府老中 松平定信)が命名したもので、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つを兼ね備えるという意味です。
第12代藩主 前田斉広公の墓所(写真:2012年4月15日撮影)
前田斉広公の墳墓
前田斉広の墓碑 墓碑銘:正四位下行左近衛権中将兼肥前守菅原朝臣広公之墓
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墓所の石柱 石柱銘:第十二代 前田斉広朝臣墓所
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石柵
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