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第13代藩主 前田斉泰公の墓


 前田斉泰(まえだ なりやす)は、加賀藩 第12代藩主前田斉広の次男(母は斉泰の側室・八百(小野木氏・栄操院))として1811年8月28日(文化8年7月10日)に金沢で生まれました。正室は江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉の二十一女・溶姫(偕子・景徳院)です。1884年(明治17年)1月16日)に74歳で亡くなりました。贈名は「温敬公」、法名は「金龍院殿文古雲遊大居士」です。
 1822年(文政5年)に父・斉広から家督を譲られて藩主となりましたが、最初に2年間は斉広に実権を握られていました。1866年(慶応2年)に長男・前田慶寧に家督を譲り隠居(ただし実権は握ったまま)しました。前田斉泰の治世の約40年間は江戸時代末期の激動時代でした。加賀藩においても藩論が沸騰し、勤皇佐幕に右往左往の状況で、外敵侵入(加賀藩の場合は主に対ロシア)に備え海岸防備を厳重にし、七尾に軍艦所を創設しました。また藩内では、銭屋五兵衛河北潟埋立事件(加賀随一の豪商(廻船問屋)銭屋五兵衛が河北潟干拓の際に毒を流して伝染病を発生させたと罪に問われた事件、五兵衛は獄死し銭屋は財産没収・家名断絶)、黒羽織党事件、武田耕雲斉事件(水戸藩の尊皇攘夷派・天狗党によって起こされた争乱)、禁門の変(嫡男・前田慶寧を上洛させて御所を警護させましたが、無様に敗退し退京してきたため、斉泰が怒り、慶寧を謹慎とし側近を処罰しました。これを契機に尊皇攘夷派の武士達への弾圧が始まりました。)、天保の大飢饉、安政の大飢饉など大事件が続発しました。前田斉泰は、市川米庵を招き書を学び大成し、能楽を推奨し自らも能の名手として知られる文化人の側面も持っていました。兼六園内にある国の重要文化財「成巽閣」は、前田斉泰の母堂である眞龍院の隠居所として1863年(文久3年)に造営されたものです。
 
第13代藩主 前田斉泰公の墓所(写真:2012年4月15日撮影)
第13代藩主 前田斉泰公の墓
 
前田斉泰公の墳墓
前田斉泰公の墳墓
 
前田斉泰の墓碑、碑銘:正二位前田斉泰之墓
前田斉泰の墓碑
 

 
前田家墓所
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