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前田家墓所
藩祖 前田利家公夫人(芳春院、お松の方)の墓
芳春院(ほうしゅんいん、利家が亡くなり出家した時の号)は、加賀藩の藩祖である前田利家の正室だった女性です。1547年(天文16年)に尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)沖の島で篠原家の娘として生まれ、幼名は松または昌と呼ばれました。
1550年(天文19年)に前田家の邸に入り、その後(1558年(永禄元年))に尾張国荒子城主であった前田利家に嫁ぎました。多産であった戦国時代でも、お松の方は多くの子を設け2男9女の母となり、1559年(永禄2年)に長女・幸姫(前田長種 室)、1562年(永禄5年)正月に長男・前田利長(第2代加賀藩主)、1563年(永禄6年)に次女・蕭姫(中川光重 室)、1573年(元亀3年)に三女・摩阿姫(豊臣秀吉 側室、後に万里小路充房 室)、1574年(天正2年)に四女・豪姫(秀吉養女に宇喜多秀家 室)、1577年(天正5年)に五女・与免(浅野幸長 婚約者、夭折)、1578年(天正6年)に次男・前田利政(加賀藩重臣(加賀八家筆頭)である前田土佐守家の家祖)、1580年(天正8年)に六女・千世(細川忠隆室、後に村井長次室)などの子供を生みました。
前田利家は戦国時代に数々の手柄をたて、百万石の太守にまで出世しましたが、利家の夫人としての芳春院の内助の功が後世でも高く評価されています。関が原の合戦の後(利家が没した翌年)には徳川家康と前田家の融和のために進んで人質となり江戸へ赴き(江戸幕藩体制における諸大名妻子の江戸居住の第一号)、江戸での人質生活は1614年(慶長19年)までの14年の長い期間となりました。
1617年8月17日(元和3年7月16日)に金沢で没し、享年71歳でした。法名は「芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼」です。
藩祖 前田利家公夫人(芳春院、お松の方)の墓所(写真:2012年4月15日撮影)
芳春院の墳墓
芳春院の墓碑 墓碑銘:菅原朝臣松子之墓
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墓所の石柱 石柱銘:前田利家卿夫人墓所
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石柵
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