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前田家墓所
第2代藩主 前田利長公の墓
前田利長(まえだ としなが)は、後に加賀藩の藩祖となる前田利家の嫡男として1562年(永禄5年)に尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)で生まれました。母は「お松の方」として有名な芳春院で、幼名を犬千代、後に利勝、さらに利長と改めました。100万石の太守となった利家とともに戦国時代に数々の合戦で戦った歴戦の武将です。
1598年(慶長3年)に第2代藩主となりましたが、徳川方と大坂方の関係悪化という難しい時代背景の中で翌年の1599年(慶長4年)に前田利家が没し、さらに1600年(慶長5年)には天下分け目の関が原の合戦が起きるなど、加賀前田家にとって難しい舵取りに手腕を発揮しました。前田利長の藩主としての在位は7年と短い期間でしたが、金沢城の修築にキリシタン大名として有名な高山右近を用い百間堀の石垣などを造らせました。
前田利長は、1605年(慶長10年)に弟・前田利常(第3代藩主)に藩主の座を譲り、自らは越中の富山城(現在の富山城址公園)に住みました。1609年(慶長14年)に居城としていた富山城が焼失したため、海陸交通の要衝となる射水郡関野(現在の富山県高岡市中心部)に街と高岡城(現在の高岡古城公園)を築き移り住みました。この間に高岡の開発を進め、現在富山県第2の都市(商工都市として発展)となった高岡市の礎を築きました。1614年6月27日(慶長19年5月20日)に高岡城で没し、享年53歳でした。法名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」です。高岡にある国宝「瑞龍寺」は前田利長の菩提寺となっています。また瑞龍寺から北へ伸びる八丁道の先には「前田利長墓所」があり、野田山の加賀藩前田家墓所とともに国の史跡に指定されています。
第2代藩主 前田利長公の墓所(写真:2012年4月15日撮影)
前田利長公の墳墓
前田利長の墓碑 墓碑銘:贈正二位行権大納言兼肥前守菅原朝臣利長之墓
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墓所の石柱 石柱銘:第二代 前田利長卿墓所
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