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前田家墓所
第5代藩主 前田綱紀公の墓
前田綱紀(まえだ つなのり)は、1643年12月26日(寛永20年11月16日)に加賀藩 第4代藩主前田光高の嫡男(母は水戸藩主徳川頼房の四女・大姫(徳川幕府 第3代将軍・徳川家光の養女))として江戸辰口の藩邸で生まれ、幼名は犬千代丸、後に将軍家綱の一字をもらい綱利と名乗り、更に綱紀と改名しました。父・光高が30歳の若さで夭折したため、僅か三歳で1645年(正保2年6月13日)に家督を相続し第5代藩主となりました。第3代藩主であった前田利常が存命であったため、幕府の命を受けた綱紀が後見となりました。正室には、会津の保科正之(3代将軍家光の弟)の娘・摩須(松嶺院)を迎え、徳川家と一段の結びつきを強めました。
前田綱紀は、幼くして藩主になり長命であったことにより、治世が79年の長きに及び、その間に素晴らしい業績を残し、江戸時代前期の名君の一人として讃えられています。内政面では藩職制の整備をはじめ、土木事業、農政施策や救貧事業など多くの政策を実現し、加賀藩中興の祖として崇められています。また学者としての顔もあり、その書は中国の乾隆四庫にも納められたといわれ、新井白石にして「加賀は天下の書府なり」と感嘆しました。また多くの名工を招き、美術工芸の発展を促し、薬学の研究、宝生流能楽の加賀への導入など文化面でも数多くの功績を残しています。
1723年(享保8年5月6日)に家督を三男の前田吉徳に譲り隠居し、翌年の1724年6月29日(享保9年5月9日)に82歳で没しました。法名は「松雲院殿徳翁一斎大居士」です。
第5代藩主 前田綱紀公の墓所(写真:2012年4月15日撮影)
前田綱紀公の墳墓
前田綱紀の墓碑 墓碑銘:参議贈従二位行左近衛権中将兼肥前守菅原朝臣綱紀之墓
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墓所の石柱 石柱銘:第五代 前田綱紀卿墓所
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墓所の鳥居
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