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前田家墓所
第11代藩主 前田治脩公の墓
前田治脩(まえだ はるなが)は、加賀藩 第6代藩主前田吉徳の十男(母は側室の常春院(園田氏))として1745年2月4日(延享2年1月4日)に金沢で生まれました。
第7代から11代までの5人の藩主は吉徳の実子です。十男の治脩に藩主の座が廻って来るとは誰も予想しておらず、治脩は出家し、越中の勝興寺(国の重要文化財、現在の富山県高岡市伏木古国府)の住職となっていました。第10代藩主前田重教に跡継ぎが無かったため、呼び戻され還俗し、1771年(明和8年)に兄・重教の隠居により家督を継ぎ第11代藩主となりました。正室は、加賀・大聖寺藩の第5代藩主・前田利道の娘・法梁院(正姫)です。
藩主となった前田治脩は、学問の振興に力を注ぎ、家老で学者であった奥村尚寛を学校総奉行に任じ、藩の学校を創設させました。学問の明倫堂と武芸の経武館の両校で、初代明倫堂学頭には当代随一の漢学者として名高かった新井白蛾を京より招聘しました。また小松にも集義堂と修道館の二校を開校させました。なお7代から11代までの藩主が短期間に交代したため、100万石の大名に見合った儀式の費用がかさみ藩財政は依然として逼迫状態が続いていました。1802年(享和2年)に先代・重教の次男である前田斉広(重教が隠居後に作った子供)に家督を譲り隠居しました。1810年2月10日(文化7年1月7日)に66歳で没しました。法名は「太梁院」です。
第11代藩主 前田治脩公の墓所(写真:2012年4月15日撮影)
前田治脩公の墳墓
前田治脩の墓碑 墓碑銘:参議従三位行左近衛権中将兼肥前守菅原朝臣治脩之墓
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墓所の石柱 石柱銘:第十一代 前田治脩卿墓所
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石柵
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