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第13代藩主 前田斉泰公夫人(景徳院、偕子)の墓


 景徳院(けいとくいん)は、江戸幕府 第11代将軍・徳川家斉の二十一女(母は家斉の側室・お美代の方(専行院))として1813年4月27日(文化10年3月27日)に江戸城大奥で生まれました。名を偕(とも)、溶姫(やすひめ、ようひめ)と称しました。
 1823年(文政6年)に前田斉泰と婚約し、1827年(文政10年11月27日)に加賀藩の上屋敷である江戸本郷邸に入輿し斉泰に嫁ぎました。現在の東京大学赤門は、景徳院来嫁の時に加賀藩邸に建てられた溶姫御殿の正門です。1863年(文久3年)に初めて金沢に入り、翌年江戸に戻り、1868年(慶応4年3月)に倒幕の気運が高まり江戸が危険となったため再度金沢に入りましたが、直後の1868年6月20日(慶応4年5月1日)に享年56歳で亡くなりました。
 将軍家斉には50人以上の子供がおり(成人したのは約半数の28人)、子息は他家の養子、子女は大藩の正室として嫁ぎました。家斉の子を養子もしくは正室として迎えた大名家に対しては、幕府から大名への拝借金(無利子の貸付金)や本来の家格よりも上位の官位が授けられるなど特別な待遇が与えられました。加賀藩の場合でも、加賀前田家の家格であれば官位は「従三位」であったのに対して、前田斉泰には「正二位」の官位が授けられています。ただし良い面ばかりだけではなく、将軍家の人物を迎えるにあたり御殿の造営や諸費用が嵩み藩財政を圧迫する例も多かったようです。また正室して嫁いでも将軍家の姫という立場を笠に着たりすることもあり受け入れた藩には厄介な存在にもなったようです。
 
第13代藩主 前田斉泰公夫人(景徳院、偕子)の墓所(写真:2012年4月15日撮影)
第13代藩主 前田斉泰公夫人(景徳院、偕子)の墓
 
景徳院の墳墓
景徳院の墳墓
 
景徳院の墓碑、墓碑銘:徳川諧子之墓
景徳院の墓碑
 

 
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